FNNスーパーニュース (2007年11月5日)

2007年11月5日 FNNスーパーニュース
護身術塾に女性殺到
木村太郎氏 「生兵法はけがのもと」


そうだろう。
そうだと思う。
全くその通りだ。

だったら、どうしろと言うのだ。

私の耳には「家にいろ」としか聞こえない。

夕方5時ごろになると、全ての町の通りから、全ての女性の姿が消える。 

昼間でも、女性が一人で歩く時は、絶えず周りを見回し、一瞬も隙がない。

賢い紳士のみなさん方は、本当に、そんな町に住みたいか。

男性である木村氏が言い捨てることが問題なのだ。せっかく隣に、女性の安藤氏がいるのに。安藤氏が「生兵法~」と言えば、だまって聞くのに。安藤氏に「生兵法~」と言わせたらよかったのだ。

でも、実際は安藤氏が「私は催涙ガスを持ち歩いている」と言い、木村氏が「生兵法~」と言った。

それが、自然だと思う。
これが、逆だったら、ヤラセだ。
ヤラせじゃなく、自然なニュースを見られて良かった。

護身術を習ってみることもいいと思う。男性との腕力の差をはっきりと知ったり、不意打ちを受けるのがどんなことか分かったり、「ああこれは、力を使わない上手い方法でなんとかしなきゃ」と思うこともあるだろうと思う。習ってみたけど、使えない、と思うこともあるだろうと思う。それぞれが、自分ができる方法を見つけるきっかけになる。

私は、木村氏に謝ってもらいたいわけじゃない。
そんなことしてもらっても、少しも嬉しくない。
じゃ、私はどうしたいんだろう。
木村氏に、どうしてもらいたいんだろう。

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この記事へのコメント

MS
2007年11月14日 19:42
被害者に落ち度があることは、犯人の罪の重さを軽くすることができるのか、ということはもっとよく議論されたほうがいいでしょう。なんでも「自己責任」といって責任を個人に押し付ける、かなりいい加減な発想が蔓延しています。

売春婦や麻薬の密売人が殺されたとしたら、「そのような仕事をする奴はそもそも殺される危険が高いのだから、自業自得だ」と言って犯人の罪を軽くすることはできるでしょうか。

強姦されたり殺されたりする側にも問題があるなどという論議は、法律の「抑止力としての無力」を証明することができても、加害者の罪の減刑にはつながりません。

罪ある者でも、落ち度のある人でも、弱い人でも、人の命の重さに変わりはありません。
アイスゆず
2007年11月14日 20:29
こんばんは。
コメント有難うございます。

>罪ある者でも、落ち度のある人でも、
弱い人でも、人の命の重さに変わりはありません。

すごく考えました。
私は、人の命の重さは人によって違うのか、ということをずっと考えています。
アイスゆず
2007年11月14日 20:31
私は、死刑は私が死刑囚の命を奪うことだと考えていますが、死刑廃止に反対です。理由は、今、この瞬間にも私の家族を殺そうとしている人間がいて、その人間が死刑を恐れて思い留まる、ということが、絶対にないとは言えないと思うからです。これは死刑囚と、家族の命をてんびんにかけ、家族の方が重いと判断したんだと思います。私は、家族が殺されるのは、何が何でもイヤです。でも私は「どの人の命も平等に扱われえるべきだ」という考えも持っています。
ふたつの考えに挟まれて、逃げ道として「凶悪犯罪をなくす」ということを思いつきました。これは現実から遠い考えです。でも、日本は大きくない国だし、銃もそんなにないから、あきらめないで考え続けています。
MS
2007年11月15日 18:28
我々が人間であるという以上、社会を構成したいという生物的欲求に集団が従っていることを意味します。どのような生物にも集団を構成し、相互に防衛し合う本能が存在しているのは、疑うべくもありません。

人間も、障害者などの弱者を保護するという社会を構築することを選んでいるのは、むしろ自然の法則に従うことであり、健全であるといえるでしょう。その集団のなかで、わがままに弱者を保護しようとしない発想を持つ人に対して、厳しい制裁が加えられるとすれば、自然の淘汰であるとむしろ言えるでしょう。
MS
2007年11月15日 18:29

問題は死刑制度も含めた社会制度はそのような集団の恒常性(ホメオスタシス)の産物であり、生物の自然な欲求の現れであることです。しかし、裁判員制度など免許のない非専門的な人間の判断が判決に及ぶようになる制度の変革がある場合、やはり正常なホメオスタシスが保てるのかという疑問は沸くでしょう。

MS
2007年11月15日 18:29
死刑が存続されるべき要件は、法曹三者という「免許権者」の厳正な審判によるときでしかない、と私は思っています。もし、裁判員制度のように非免許権者の判断が加わる場合、人民裁判的な単なる「吊るし上げ」の場になることも想定に入れなければならないかもしれません。吊るし上げは生物的な欲求によるホメオスタシスというよりもむしろ、「扇動」による「人工的」な意図を感じます。

私は死刑存置論者ですが、それは現行の裁判制度を維持したままでという前提ならばという「条件付き」であり、今後、裁判員制度が取り入れられるなら、正常なホメオスタシスの維持し続けるために死刑廃止も視野にすべきであろうかと、そう考えています。

むしろ人間は言語を持つ主でありますから、「恐怖」をもって「統治」するよりも、言語による「統治」を目標に掲げることこそ、真に人間という生物としての種の持つ特性であろうかと思いますし、その言語に反する行動をとる者に対し、社会的ホメオスタシスを破壊するものであるとの認識から、刑罰を加えるべきであろうかと思います。
アイスゆず
2007年11月15日 22:18
とりあえず、頑張って、「ホメオスタシス」という言葉を調べてみました。
「生物体のもつ体内諸器官が、気温や湿度などの外的環境の変化や肉体的変化(姿勢・運動)に対し、ある範囲の均衡状態を保つこと。」
恒常性
「生物の生理状態などが一定するように調節される性質。」

なんとなく、分かった気がします。
^^

裁判員制度について、おっしゃることが分かる気がします。私も、裁判員制度は、いい制度だと思いません。
>「恐怖」をもって「統治」するよりも、言語による「統治」
死刑なんかなくても凶悪犯罪が起こらなければ、それが一番いいなあと思います。その「言語」はどんなものかな、と思います。
MS
2007年11月15日 23:36
統治のために用いられる「言語」こそ「法律」であると思います。法律は正に、人間を支配するための言語であり、すべての人はそれに服すことによって、社会を維持しているものです。

「法律」という「言語」を本当に維持して守ることを自覚できるためには、その「意味」を深く自覚するところから始まるものと考えます。

法にはそれを必要とする精神が存在し、それはある種の「直観」的能力を必要とするものです。人間という種としての人すべてに、その能力が備わっていますが、「良心」の痛みが欠けるときに、その能力は旨く働かないのです。

法はその意味で「良心」のたまものであり、それは「痛み」を感じることができるということにほかなりません。無味乾燥に見える法律の文言の背後には、古代以来の人間社会に起因する「痛み」を回避するための知恵が、隠されているのです。痛みのある良心こそ法の求める「正義」であり、痛みなく「正義」は主張できないのです。
アイスゆず
2007年11月16日 01:27
>その「意味」を深く自覚するところから始まるものと考えます。

すごく共感しました。

>痛みのある良心こそ法の求める「正義」であり、痛みなく「正義」は主張できないのです。

これは例えば、ある被告の罪に対して死刑を求めるときは、その被告の命を奪うということがどういうことか、十分感じた上で、その上でないと求められない、ということでしょうか。
MS
2007年11月16日 10:21
 私は本村氏の主張には同意も同情も出来ませんが、遺族として被告人への死刑を求めようとすることは、人として当然の感情であろうと思います。むしろご自身がその感情の限界をよく自覚なさっておいでであろうと思います。

 どのような立場の人も、法の前には折れなければならないのだ、と言うことは、本村氏も理解しておられますし、その意味で弁護団の苦労も、よく了解しておいでであると思いました。

「怒りの維持は社会の荒廃を招くのだ」という、古代以来の認識は大変重要であると思います。旧約聖書の復習法は、日本人が誤解しがちな「仇討ちの正当化」という意味は含んでいませんでした。

「目には目を、歯には歯を」という復習法は「怒り」は「次の怒りと犯罪を生む」と言う認識から、それ以上の復習の連鎖を断つための「罪形法定主義」であったことは近代法への影響の意味からも大きいと思います。明確であると言えるでしょう。
MS
2007年11月16日 10:21

「被告の命を奪うこと」そのものを切り取って考えがちですが、「その制度が社会維持にとってどういう意味を持つか」と言うことから入ることが重要だろうと思います。怒りによって統治することの限界は、「社会の荒廃を招く」ということから、おのずと見えていると思うのです。

 本来、法が「意味」を含んでいると言うことは、法においては究極的に「和解」が目指されていると言うことです。「和解」を目指そうとしない法曹関係者は、法の趣旨から逸脱しているのです。これは近代法ばかりでなく、古代の法体系においてもそうであったのです。

被害者家族の大部分にとって「どうしてこんなことが怒ったのか、その「意味」を知りたい」と言うことではないでしょうか。和解において破れが早急に補修されることが、社会として最も望ましいことであると思います。
アイスゆず
2007年11月16日 19:59
>被害者家族の大部分にとって「どうしてこんなことが怒ったのか、その「意味」を知りたい」

本当に、そう思います。とてつもなく、大事なことだと思います。そして、加害者自身もどうしてこんなことをしたか、自分でも分からない部分があるんじゃないかと思います。本当に知りたいことを加害者から引き出すには、すごく手間と時間がかかるんじゃないかと思います。きっと、何人もの専門家が加害者のそばに長い時間いて、色んなことを問いかけたり、観察したりしなきゃいけない。それから周囲の環境、社会全体について考えないといけないと思います。
アイスゆず
2007年11月16日 20:05
>「怒りの維持は社会の荒廃を招くのだ」

おっしゃるように、仇討ちの繰り返しは意味がないとは思います。でも、人を殺した罪の償いは、じゃあ、一体何なんだろう。私は、実は「罪」が何かもよく分からないので、その「罪」の「償い」が何かも良く分からないのです。
「罪刑法定主義」…う~ん。頑張って、調べてみました。「どのような行為が犯罪であるか、その犯罪に対してどのような刑が科せられるかは、あらかじめ法律によって定められることを要するとする主義。」
よく分かりました。^^